昭和41年11月11日 夜の御理解
日本には昔から、神様を敬うというて、一つの敬神志向というのが一つのまあ義風を、お国柄としてです、神様を尊ぶと、神様を敬うというわけですね。ですけれどもその概して、その神様を敬うておると、ちょっとお大神宮様をお奉りして、朝晩お榊の水を替えて、そして毎日拍手して拝んでおりますと。なるほどそれは敬神指導からきたものですけれども、それが信心ではないのです。信心とはいわゆる神様を、敬うと言う事と同時に、神様を信じると言う事のなんです。
いわゆる神様を信じ敬うというものでなからなければ、信心にならんのです。そこにお道の信心は私はあると思うのですね。ただ敬ったというだけではいけんのです。愈々神様を信じさせてもらう、ならばならどういうふうに信じさせて頂くかと言う事、お道の信心をさせて頂いて、いやどういう風に信じられて来る様になるかと言う事。教祖の神様は教祖の神様の、御信心によってまあ、現われなさったわけじゃあない。ね、昔からある神ぞと仰るようにですね。
ある神様けれども、それを天地金乃神としてお現しになられたのは、矢張り教祖の神様である。その天地金乃神様という神様は、どのような神様か。それを教祖はその親子の情親子のいわゆる関わり合い、関係をもってと言うとられます。信心は親に孝行するのも同じ事ぞやとこう仰る。公使が親に仕えるように、ね、親の思いに沿うていこうと努めるように、いわゆる親孝行する事が、またその喜びが自分の喜びであるというふうに、そのう、そういうあり方にならせてもろうて、この神様を頂いていく。
そこには親神様じゃなあ、成程親じゃなあと言う様なおかげを頂けるのです。成程親なればこそじゃなあという、その体験が生まれてくるのです。そして段々分からせて頂く事になるです。成程この全宇宙を御支配下さる、ご守護下さるお守りくださる、そういう風な表現で言っておる神様は沢山あるんだけれども、教祖がそう言うておられる親神様という神様はです。
只氏子可愛いという御一念に、燃えておられる神様であるなあと、今まで思うておった難儀も困った事というのも皆んなその、天地の親神様の御愛情の現われであった。言う事を聞かん子供を、親が叱るように又は場合には叩きもする様に、場合には暗い押入れの中にでも押し込んででも本当の事を分からせようとする親心、そのままに神様は氏子の上に現われなさる神様だなと言う事が、段々信じられて来る様になるのです。ね。
同時にその神様はどう言う様な、御性質御性質というとおかしいけれど神様が。ちいうのは今日でした。善導寺の原さん所の娘さんが北野に嫁にいっております。ここでいわゆる愛子さんの弟になるわけです。非常に良く参ってきたんですけど、この頃ぱったりもうやめてしもうた。時々そのまあ嫁の恵子さんが参って来る位の事。この頃から次々とそのよくない事が起こってくる。非常にこの頃から何日間も腹痛で苦しんだ。
やれやれようなったと言いよったら、今度は何か風邪ともなんとも解らん熱が出て、昨日から苦しんでおる。親もこの頃椛目の金光さんに参らんけんバチかぶっとるとじゃろう、お前ちょっと参ってきてくれっち今朝から言いおった。そげん言いますっち。それで私が申しますこの神様はねぇ、あのバチを当てる暇があるならおかげをやると仰るほどに忙しい神様じゃからね、バチ当てなさる暇なかよって私しゃいうた。ただおかげをやりたい一念の神様。ね。
それを例えばはあ神様、最近御無礼を致しとりますから、神様お気付けを下さっておるなあと頂けばです、それは神様の愛の心であると言う事が分かるのです。この神様は、ね、その触らぬ神に祟りなしと言った様な意味合いの神様ではない事が分かるです。同時に成程親神様だなあと言う事も分かるです。ね、また親神様の情を持ってです、なら実にその、その情の交流というか、成程神様がこう言う様な事にまで、こういう働きを下さって、勿体ない事じゃなあと。
これはここにお引き寄せ頂かれる皆さんが日々体験される事であろうとこう思う。お繰り合わせを願うて行きゃ何という神様の側におって、聞いとって下さるように、実にその、素晴らしいタイミングの中にです、ね、お繰り合わせが頂けれるでしょう。あれをお繰り合わせと言う。成程親神様でなればこそなんです。こうしてはならんああ言うちゃならん、こう言う事をしたらバチかぶると言った様な、いわゆる神様でないと言う事は、教祖の神様の御教えの中にもございます。
知者も徳者も、ね、生まれてくる時には日にちも言わずに生まれてきておりながら、ね。その、この世に生を受けておるその間だけ、何じゃかんじゃというて文句を並べて、そして死んでいく時にはまた日にちも言わずに、時間も言わずに、ほ、(?)出来ない様にして、走って死んでいくじゃないかと教祖は教えておられます。その事を只今から、御祈念前に、永瀬さんが今朝からお夢を頂いておられます。ね、
昨夜ある事を頂く。その事をどうぞ、お夢の中でもお知らせ下されというてお願いして休まれたら、お夢の中にそういうお知らせを頂いておられる。所謂お夢の中にでも、私共のお導きをしてくださる神様なんだと言う事。ね。人間本然としてと言う事。人間の本当の姿というものを、私共が分からせてもろうて、本当に生まれてくる時には一糸まとわず、いわゆる裸で生まれてきておるのであると言う事。
そこに我情が付き我欲が付き、あれは私の着物じゃ、これは私の家じゃというて、そこに我情我欲のために、苦しい生活を続けていくのだと、こう言う言うておられます。そこん所を教祖の神様は、我情我欲を離れて真の大道を開けよ。自分の思いを捨てよ自分の欲を捨てよ、そこにはわが身は神徳の中に生かされてある、成程天地の親神様の、親神様の懐の中にあるのだなあと、ひもじければ丁度母親が乳を当ておる様に、
ただこちらが無心に親の膝に、這い上がっていけば、それを抱きかかえて母親が乳を当てる様に、必要な物を必要に応じて下さる事のできれる、仕組みになっておる天地なのだけれども、その有り難い天地を自分でわがまま勝手な生き方をして。そしてそこに難儀を囲っておるというのが、人間の救われがたいない者の姿、信心のない者の姿なんです。我情我欲を離れて真の大道を開き見よと、ああ一切をあなたにお任せするという心になればです、成程わが身は神徳の中に生かされてあると。
成程親神様の、親の懐の中にある私だ、また私共であると言う事が分かる。そういう有り難い天地の親神様の御守護の中に、お守りの中にあるのであるから、雨が降るからとか風が吹くからとか、日が良いとか悪いとかと言う事はない。ね、雨の日も風の日もやっぱり有り難いのであり、今日は何の日だから、例えば結婚式なんかいたしますと、もう先ず第一黄道吉日を選ぶ。何とももうその神前結婚が所ではまた2、3日前の新聞に載っておりましたが、もう周りからもう花嫁さんのオンパレードです。
もう本当におかしいごたるですね、日本人の考え方っていうのは。ですからもう神様信じらんもんじゃけん、もう神様にお届けするところからわかりゃせんです。もうお供えでん何でん前んとと同じもん。さあ順番さあ次っちゅうごたる風で、あげなん風で結婚式を挙げてから、あれで神前結婚したつもりでおるだろうか。いわゆる敬神思想はあるけれども、かみさまを信じる事が全然知らないから、ああしたお粗末御無礼な事平気でやっておる。それけん椛目のごつ、神前結婚なんかは素晴らしいと思うですね。
もちろん神様を信じて御取次ぎを信じて、親先生を信じてそうしてここで、いわゆる信心結婚するのと同じ神前結婚と名前は同じであっても内容が違う。それとても例えば迷信は言うちゃあいかんと、信心は迷信じゃと言うておるような人達がです、やはり黄道吉日を選ばなければ結婚式ができない、いわば家相やら地相と言う様なものを見らなければ、家一つ建てる事ができない、家一つ扱う事ができない。教祖の神様はもう家を建てるならば使い勝手の良いのが良い家相じゃと仰る、ね。
いつでもいい一番例えば神前結婚でもするなら一番暇な時が良か。もうよそんとが悪日っち言いおるごたる日がだいたいが一番いいです。値段は安かもん、そげな日は。ね、ましてや(?)なさる。間違いない。なら料亭でもそうです。もう今日はあなた達だけじゃけんゆっくりして下さいっち言わしたに違いないです。けれども時間ばかり気にして、もう時間でございますからお立ちくださいと言う事になってくるのです。もうけたたましい結婚式。おかしいじゃないですか。
さあ民間人だとか言う。ね、迷信はいらんととかいうものがです、愈々さあ自分の事に成って来ると黄道吉日の様な事するじゃないですか。ね、何の日が良かけんでいつやらに棟上げをしようと、と言った様な事なのです。それは私はねそのわざわざ悪い日を選ぶ事はいらんけれどもです、そう言う事様なにこだわらんで済む、ね、そう言う様な事はないそう言う事はないそう言う事は迷信だと、もうまっ真っ向から教えておられるのが教祖であり、なぜそう言う事を教えるのか天地の親神様のなんだからなんです。
親神様がお守り下さる日にいうなら、良い日悪い日という日がある筈がない。指一本だって天地の親神様の、ごときにもれると言う事はない。お寺のよしりであろうが、女の吉備舞であろうが、畑であろうが(?)であろうが、天地の親神様のいわば御地内でないとこは、指一本でもして下さってないのです。その天地の親神様の御地内をです、ね、ここは着物で水やらなん、ここはどうのあげなんとは日本人だけです。
私は長くシナにおりましたけれど、シナではあんな事は申しません。よっぽどシナの方が開けてます。アメリカでも申しません。ほんと日本人だけ。そういう窮屈な生活からです開放された生活。天地の親神様の御配慮の中にです、もうそれこそ生き生きとして、ね、親のある子と親のない子に違いを感じさせて頂きながら、信心のある者とない者は、親のある子とない子との違いと仰る。
その親のある子の違いを感じさせて頂きながら、日々を安心して、親に任せてゆだねて、生活をしていくという、有り難い生活の出来れる道を教祖は教えられたのです。そこに生まれてくる時にも日にちを言わずに生まれてきた。死ぬる時にも日にちを言うわけにはいかん。のだけれどもお道の信心をさせて頂けば、天地の親神様におすがりさせて頂けば、例えていうなら出産なら出産と言う様な場合でも、忙しい最中に生まれる様な事はない、それぞれ真っ最中と言う事はない。
ちゃんと神様が万事万端、ご都合お繰り合わせを下さって、万事の身にお繰り合わせ、お国替えでもそうである。今んごたっときに死んでもろうちゃあ困る。というて軽いうちから困られるような事のあるはずがない。ね、そげんあるなら歩まん。ちゃんとお繰り合わせが頂けれる、いわばそういう働きを持ってござる神様なのだ、と私は信ずる事だと思う信心とは。そういう神様だと信ずる事なんです。そして敬うのである。信じる力は強いけれども敬う事をよくしない人がある。
もうお取次ぎを頂いておかげを頂く、いや神様っちゃあ間違いない。やっぱおかげ下さる神様だ、そのおかげだけを信じてです、神様を敬わない人がある。尊ばない人がある。これではいけません。日本古来の一つの儀風と私は思うです、敬神の思想というものは。ね、そりゃあ有り難い事。けれども、し、敬うだけではなくて、それを信じ敬うと言う事になってくる時に初めて信心と言う事になるです。ね、
そういう生活を私は分からせて下さる、そういう生活がの、道付けをしてくださった方が、教祖の神様であると、私は思うです。お互い信心させて頂いておってもです、中にはやはりまだまだ同じようなもやもや、夢から覚めないという人がありましてね、ただおかげのおかげを受ける、神様だけのように、思うておる人もありますけれど、それでは本当のことじゃありません。ね、
只今私が申しましたような事を信じきらせて頂いて、そしてその神様にゆだね、すがらしてもらう生活、ですから、敬わなければおられんのです。とてもとても本当に、私は敬神思想といったようなことの上に、例えば先ほどの話じゃないですけれど、さああのみじん切りに最大の一番大事な結婚式をですよ、それこそまあ時間といえば時間、さあお次をどうぞと言った様な。
それこそ神様の名もなんもないと言った様な、ただ神様の前は、さあいくらの結婚式ですかはあ二千円持ってお願いします、五千円持ってお願いしますと言う様な事でです。神様が、おかげを受けやりなさる神様があるとされるならば、そういう神様も神様の風上にもおけない。それを矢張り神様だと思うて、それを信心だと思うておる所にです、私共日本人の間違いがあるんじゃなかろうかと私は思うですね。
どうぞ。